暗い夜道と甘い声

2020年01月21日

 匂わせ写真なるモノをご存じですか。

 例えば料理の写真をSNSに上げる際、その端にさり気なく向かいのお皿やグラス、または手などを写り込ませることで、一緒に食事をしている"誰か"の存在をそれとなく匂わせたりする、男女共有の表現術のことです。あんまりやると疎ましく思われる例のヤツです。


 昨年の11月、同志社ミス研のR先輩と東京で分子ガストロノミー料理を楽しんでいる時のことでした。

 日本橋はマンダリンオリエンタル東京の38階、眼下に広がるのは煌びやかな夜景――ということもあり、明かりの落ちたムーディな店内は、やはり愛の言葉を囁き合う妙齢の男女で溢れかえっていました。

 そんな雰囲気に呑まれ――という訳でもありませんが――よし、ここはひとつおれたちも負けずに匂わせ写真でも撮ろうじゃないかということになったのは、或る意味必然的な流れだったのです。

 30に近い男二人で、嬉々としてグラスや食器の位置を変えてみたり、カメラのレンズ越しに手を置く位置を確認したりするのはなかなかどうして楽しかったのですが、その時、フトこんな話になりました。

「匂わせ写真って、犯人あて小説と同じじゃないか?」

 安易な同一視は決して褒められたものではありませんが、聞いて下さい、そう思い至ったのにはそれなりの理由があるのです。


 匂わせ写真というモノは、あからさま過ぎることは何となく躊躇われるけど、それでも恋人――若しくはそれに類する人――の存在を他人に知って欲しいし自慢したいという、矛盾した二つの思いから生まれるものです。その双方を満たすため、撮影者たる自分は、なるべく写真内で相手の存在を消しつつ、しかし同時に、見る人には"誰か"の存在を感づいて貰えるよう痕跡を残すことに苦心せねばなりません。

 これは、まさに犯人あて小説を書く時の苦悩と同じではありませんか。

 犯人あて小説の作者は、これと定めた真相を十重二十重に謎で包み、更には読者を欺くための燻製鰊をあちこちに振り撒かねばなりません。しかし、一方では読後にアンフェアだと謗られることのないよう、真相に至る手掛かりも同じくらい盛り込まなければいけないのです。犯人あて小説がそのジレンマの苦しみの果てに生み出されることは、皆さんもよくご存知でしょう。

 誰にも解けないほど難しい犯人あて小説では、犯人あてとして失格です。それと同じように、誰にもわからないほど巧妙な匂わせ写真では、最早匂わせ写真とは呼べません。それでは誰にも嗅ぎ取れないのですから。R先輩の零した「匂わせ写真は、作者と読者の甘い共犯関係に似てる」という言葉が全てなのです。

 全く関係がなさそうに思える二つに意外な共通点が見つかった時の快感は、良質なミステリを読み終えた時のソレに似ていますね。皆さんも匂わせ写真を撮る時は、犯人あて小説を一本仕上げるのと同じくらいに頭を使うのでお気を付け下さい……というのも変かしら?

 そういえば、一番大事なことを忘れていました。

 大変遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年も色々とやっていきますので、どうぞ伊吹亜門と酒樽奇談をよろしくお願いします。