雨と短銃/Apocrypha
蕭々と雨の降りしきる、どこかまだ涼やかな初夏の昼下がりだった。
桐野利秋が碁笥のなかで指を遊ばせていると、封書を携えた官吏が足早に入って来た。官吏は恭しく封書を差し出して、文部大輔の江藤新平からだと云った。
桐野は碁盤から顔を上げる。江藤と云えば佐賀の雄だ。兎に角弁の立つ、剣呑な男だということは桐野も知っていた。
「使いの者が偉そうに面会を申し出ておりましたが、追い返しておきましたので」
「私にか? どんな奴だ」
「江藤の番犬でございますよ」
官吏の口元に、皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
封書を掴み取りながら、桐野はああと頷く。そう云えば、以前にそんな噂を耳にしたことがあった。
大概の政府高官がそうであるように、江藤新平もその身辺に護衛の者を置いていた。護衛役は元々去る雄藩の公用人だったそうで、御維新を経て尾羽打ち枯らし困窮極まった所を江藤に拾われたらしい。そんな妙々たる男が、俸禄を得るため後から来た江藤に媚び諂う姿を嘲って、口さがない者は「江藤の番犬」と陰口を叩いているとか、いないとか。
では、なぜ番犬なのか。桐野はこんな話も小耳に挟んだことがある。
或る宴席で、酒乱と悪名高い某高官が江藤に絡んだところ、一片の余地もなく云い負かされた。激高した某は顔を真っ赤にして江藤に殴り掛かったのだが、その途端、後ろに控えていた護衛が身体を滑り込ませて、瞬く間に某を抑え込んだ。騒然となる宴席中で江藤だけは慌てた顔も見せず、護衛を連れて平然と辞去したのだそうだ。
訪ねて来たのはその男だろうか。しかし、面識などない筈だが。
「その男、名乗ったのか」
「尾張の矢野、いや鹿野とか申しておりましたが」
碁石を掴んだまま桐野は目を剥いた。
「なに、尾張だと。それは鹿野師光ではないのか」
桐野の勢いに目を白黒させながら、官吏は慌てて頷いた。
「は、確かにそう申しておったような気も......」
「この莫迦者が。鹿野殿なら私の客人だ、直ぐに呼び戻せ!」
*
散切の髪をふわふわと揺らしながら、鹿野師光は笑顔でやって来た。
「やあどうも。随分とご無沙汰ですね」
桐野も立ち上がり、一礼する。
「こちらこそ大変ご無沙汰をしておりました。この度は、部下が大変失礼を致しまして」
「いやいやそんな。おれは単なる使い走りですから、お気になさらず」
向かいの椅子を進めて、桐野も革張りの西洋椅子に腰を下ろす。
「しかし驚きました。江藤殿の護衛は中々の手練れだと聞いておりましたが、真逆貴公だったとは。いいのですか」
「何がです?」
「いや、貴公ほどの男が高々護衛役なぞ。役不足でしょうに」
「そんなこたァありません。おれは満足しとりますよ」
番犬という陰口のことを、師光は知っているのだろうか。喉元まで出掛けた忠告の言葉を、桐野は再び呑み込んだ。云ったところで意にも介さないだろう。そういう男なのだ。
「それにしても随分と立派になられて。あの血気盛んな中村半次郎が、今じゃ陸軍少将とは」
揶揄するような調子でもなく、師光は莞爾と笑った。確かこの男は四つ年長なだけの筈だが、その慈しむような眼差しがどうも桐野にはきまり悪く、苦笑するより他になかった。
「しかし、どうもお疲れのようですな」
「そんなことはありません。西郷先生も仰いましたが、頑強さだけが私の取柄です」
「そうですか? 何か心配ごとのあるような顔をしとられますがね」
思わず頬を撫でる。長く伸ばした口髭が、ちくちくと掌を刺した。
「大丈夫ですとも。疲れてなぞいませんよ」
桐野は笑顔を作り、開け放たれた障子から外を見遣った。
しょぼつくような小糠雨が、広い石庭を濡らしている。灰色の情景のなかで、紅葉の緑だけが滴るようだった。
ふと、桐野の胸中に一陣の風が吹いた。その風は、桐野が今まで溜めていた靄のような思いを立ち所に吹き上げる。
「鹿野殿」
「はい?」
「貴公は、今の太政官をどう思いますか」
一度迸った憂慮の念は、もう止めることが出来ない。桐野は、思いの丈を吐き出さずにはいられなかった。
「私は、皆が逆上せているように思えて仕方ないのです。御維新の前には汗まみれ泥まみれで駈けずり廻っていた男たちが、今では洋装に身を包んで、柳橋や新橋で夜な夜な現を抜かしている。昔の殿様みたいに小姓を何人も連れて、偉そうに踏ん反り返っている。そんな姿を見ていると、私はこれでいいのかと思わずにはいられんのです。こんな筈ではなかった。こんなことでは」
「亡うなった者に顔向けが出来ィせん、ですか?」
桐野は顔を顰め、頷いた。
師光も庭に顔を向ける。二人の間に言葉はなく、静々とした雨音だけが辺りには響いていた。
「鹿野殿」
桐野は顔を戻した。
「私は貴公に会ったら是非とも伺いたいことがあったのです」
「ほう、何ですか」
「貴公は、あの事件のことを覚えていますか。我々が未だ京に居た時分、土州の坂本龍馬が薩長の手を握らせようとした際の、あの事件を」
師光からの答えはなかった。小さな掌を腹の上で重ね、黙然と雨の庭を眺めている。
「長州の小此木鶴羽が斬られたあの事件です。西郷先生も、あの件に関しては今日に至るまで一切お話しになられなかった。鹿野殿、貴公はどうなんです。いや、きっとご存知の筈だ」
「もう済んだ話じゃないですか。今更穿り返した所でどうにもならんでしょう」
いいやと桐野は強い口調で云った。
「私は、知らねばならんのです」
師光がゆっくりとこちらを向く。その眼差しは茫として、どこか哀し気だった。
「本当に、知りたいですか」
「覚悟は出来ています」
師光は唇を結び、小さく頷いた。
「兵部省のお仕事はええんですか」
「構いません。貴公の方は」
「已むを得んでしょう。ほんでも――」
遅くなったら怒るだろうなァと呟きながら、鹿野師光は姿勢を正す。
そして、六年前の夏、薩長協約も大詰めとなった矢先に京都は西陣の稲荷神社で起きた、或る長州藩士の襲撃事件に関して、静かに語り始めた。